静寂の運河が語る、激動の100年――なぜ小樽運河は全面埋め立てを免れたのか

冬の夜の小樽運河 [小樽] 南小樽・中央地区
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潮の香りと、どこか懐かしさを抱かせる古い石造倉庫。小樽の街を歩くと、かつてここが「北日本随一の商都」として、日本の近代化を牽引していた時代の息遣いが聞こえてくるようです。その中心にある小樽運河は、今や年間数百万人を魅了する観光の象徴となりました。しかし、この美しい水辺が、かつては「ドブ川」と呼ばれ、地図から消え去る寸前だったことを、皆さんはご存知でしょうか。

小樽に住む私たちが、この景色を語る時、そこには単なる観光地の美しさだけではない、十数年にも及ぶ市民たちの熱い「想い」が重なります。今回は、運河の誕生から「運河論争」と呼ばれた激動の保存運動、そして現代への再生に至る物語を紐解いてみたいと思います。

1. 運河誕生の必然:北の「心臓」を支えた艀(はしけ)の役割

小樽運河は、大正12年(1923年)に完成しました。当時の小樽港は、内陸の空知地方で産出された石炭を全国へ送り出す拠点であり、港内は常に大混雑していました。当時の物流を支えていたのは「艀(はしけ)」と呼ばれる小型の舟でした。沖合に停泊した大型船から、この艀が荷物をピストン輸送し、海岸沿いの倉庫へと運んでいたのです。

荷役の効率化が急務となる中で、当時主流になりつつあった「埠頭方式(海に突き出した桟橋を作る方式)」ではなく、あえて「運河方式」が採用されました。「港湾工学の父」と称される廣井勇は、当時の人力による艀荷役の現状を鑑み、海を埋め立てて倉庫の目前まで水路を引き込むこの方式こそが、当時の小樽にとって最も現実的な解であると提言したのです。

こうして誕生した小樽運河は、最盛期には約600隻もの艀が行き交い、作家・小林多喜二が「北海道の『心臓』みたいな都会である」と表現した、商都・小樽の繁栄の源泉となりました。

2. 唯一無二の景観:なぜ小樽運河は「湾曲」しているのか

小樽運河を散策していると、その水路が緩やかにカーブしていることに気づかれるでしょう。実は、これが小樽運河の最大の特徴です。通常の運河は地面を掘って作る「掘り込み式」ですが、小樽運河は「海岸の沖合を埋め立てて作った」という特異な出自を持っています。

自然の海岸線をそのままなぞるように埋め立てが行われたため、運河は優美な曲線を描くことになりました。この工学的合理性から生まれた「湾曲」が、後に保存運動において「芸術的な景観美」として再評価されることになります。

冬の夜の小樽北運河

3. 斜陽の時代:繁栄の象徴から「都市の汚点」へ

しかし、繁栄の時代は永遠ではありませんでした。昭和30年代に入ると、エネルギー政策が石炭から石油へと転換し、小樽港の主役だった石炭荷役は衰退します。さらに、大型船が直接接岸できる埠頭の整備が進んだことで、艀そのものが不要になってしまいました。

役割を終えた運河は、次第に維持管理が疎かになり、近隣からの生活排水が流れ込む場所へと転落します。ヘドロが堆積し、メタンガスが湧き、異臭を放つ「ドブ川」。昭和40年代の運河は、市民にとって「斜陽のまち」の象徴であり、埋め立てられるべき過去の遺物と見なされていました。

4. 運河論争の10年:市民が守り抜いた「まちの記憶」

昭和41年(1966年)、小樽市は交通渋滞の解消を目的として、運河を全面的に埋め立て、6車線の道路を建設する都市計画を決定しました。工事が進み、有幌地区の古い倉庫群が次々と解体される中、一人の市民が声を上げました。

「小樽の歴史そのものである運河を、このまま消し去っていいのか」。

昭和48年(1973年)、峯山冨美氏らを中心に「小樽運河を守る会」が結成されます。これが、後に日本中の注目を集めることになる「運河保存運動」の始まりでした。保存派の市民たちは、「地域に生きるとは何か」を問い直し、たとえ汚れていても、そこに刻まれた「まちの記憶」を守ることこそが、将来の資産になると訴えました。

行政や経済界との激しい論争は10年に及び、街は二分されました。市民の半分を超える約9万8千人の署名が集まり、さらには若者たちが運河を舞台にした「ポートフェスティバル」を開催。「古いものをただ壊すのではなく、活かすことで街を再生させる」という新しい価値観を、自らの手で体現してみせたのです。

5. 折衷案がもたらした奇跡:再生する観光都市

論争の末、昭和59年(1984年)、当時の北海道知事による仲介を経て下された決断は、運河の「半分」を残すという苦渋の折衷案でした。南側の約500メートルについては、幅40メートルのうち20メートルを埋め立てて道路と散策路にし、残り半分を水路として保存することになったのです。

全面保存を望んだ市民たちにとっては敗北感の残る結果でしたが、この「ハーフ・カナル(半分の運河)」こそが、結果として「歩きながら歴史を楽しめる空間」を生み出すことになりました。石畳が敷かれ、63基のガス灯が設置された運河沿いは、かつて見放された場所から、世界中から人々が訪れる奇跡の遊覧地へと生まれ変わったのです。

6. 散策の提案:運河の歴史を深く知るためのスポット

運河をただ眺めるだけでなく、その背景にある歴史を肌で感じていただける場所をいくつかご紹介します。自分の足で歩くことで、この街が守りたかったものの正体が見えてくるかもしれません。

① 北運河エリア

浅草橋周辺の賑わいを離れ、北へ歩を進めてみてください。そこには埋め立てを免れ、当時のままの幅40メートルが残された「北運河」があります。ここには今も現役の漁船が停泊し、海側の護岸には当時の石積みがそのまま残っています。大正時代の空気感が今も色濃く漂う、静かな場所です。

小樽運河の北側(通称北運河)

② 旧小樽倉庫(小樽市総合博物館 運河館)

明治20年代に建てられた、小樽最大の大型倉庫です。現在は博物館として活用されており、館内には北前船の模型や当時の生活道具が展示されています。木骨石造という小樽独特の建築構造を間近で見学でき、「蔵持ちこそが一人前の商人」とされた時代の誇りを感じることができます。

③ 色内(いろない)銀行街

運河から一本山側の通りには、かつて「北のウォール街」と呼ばれた旧銀行建築が立ち並んでいます。日本銀行旧小樽支店をはじめとする重厚な石造建築群は、運河でもたらされた莫大な富がこの街に蓄積されていた証です。運河保存運動が、これらの周辺建築の価値を再発見させるきっかけとなったことも特筆すべき点です。

7. まとめ:未来へつむぐ「民の力」

小樽運河が今日に残された理由。それは、単に建物が頑丈だったからでも、行政の慈悲があったからでもありません。それは、自分たちが暮らす街のアイデンティティを自らの手で守ろうとした、小樽市民の「民の力」があったからに他なりません。

この精神は今も、冬の夜をキャンドルで彩る「小樽雪あかりの路」や、解体の危機を乗り越えて保存が決まった「旧北海製罐第3倉庫」の活動へと引き継がれています。小樽の歴史は、決して過去のものではありません。古いものを愛し、そこに新しい命を吹き込み続ける人々の手によって、今この瞬間もつむがれ続けているのです。

石畳を打つ足音を聞きながら、運河の対岸に並ぶ倉庫群を見上げてみてください。そこには、100年の歳月と、それを守り抜いた人々の静かな誇りが、今日も確かに息づいています。

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