小樽の歴史を巡る旅|縄文遺跡から「北のウォール街」・運河保存まで完全解説

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小樽という街の魅力は、単に「運河が綺麗」とか「お寿司が美味しい」といった言葉だけで語り尽くせるものではありません。

私たちが普段、観光で何気なく歩いている石畳や倉庫群。その背景には、幾重にも重なる「歴史の断層」が、現代の風景の中に鮮やかに息づいています。縄文の静謐な祈りから、「北のウォール街」と呼ばれた狂乱の繁栄、そして衰退の危機を市民の手で乗り越えた再生の物語まで。

かつて作家・小林多喜二が「北海道の心臓」と呼んだこの街。ここを歩くことは、日本の近代化の光と影、そして人間の営みの深淵を辿る旅に他なりません。

今回は、小樽在住の私が、資料と現地の空気を織り交ぜながら、各時代がこの空間に刻んだ記憶をじっくりと紐解いていきます。少々長くなりますが、読了後にはいつもの小樽の景色が、まるで違ったものに見えてくるはずです。

1. 太古の祈りと北方の刻印:縄文・続縄文時代

小樽の歴史を語る時、多くの人は明治以降の開拓史から始めようとします。しかし、この土地の記憶は、和人の入植よりはるか昔、数千年前の先史文化にまで遡らねばなりません。

小樽は古くから、日本海がもたらす豊かな海洋資源と、背後の山々が恵む森林資源の接点でした。そこは、人々が定住し、命を繋ぎ、そして祈りを捧げるための「特等席」だったのです。

忍路環状列石(ストーンサークル)の静寂

小樽市の西部、忍路(おしょろ)地区の段丘上に、縄文時代後期(約3,500年前)の巨大な遺跡が静かに眠っています。国指定史跡「忍路環状列石」です。

南北33メートル、東西22メートル。広大な楕円形に大小の石が整然と配置されたこの空間に立つと、不思議な感覚に襲われます。周囲には、当時の人々が見ていたであろう山並みと空だけが広がっています。

これほど大規模な配石遺構を築くには、膨大な労働力と、それを統率する高度な社会組織が必要だったはずです。ここは単なる墓地ではありませんでした。集落の人々が集い、死者を送り、季節の移ろいを知り、神々に祈りを捧げる「聖なる空間(サンクチュアリ)」だったのです。

風の音しか聞こえないこの場所で石に手を触れると、文字を持たなかった古代人たちの切実な祈りが、指先から伝わってくるようです。

手宮洞窟と「古代文字」論争

また、小樽港に近い手宮地区には、続縄文時代(約1,600年前)の貴重な遺構「手宮洞窟」が保存されています。

洞窟の壁面には、角のある人物や、杖を持った人、そして多数の舟や動物と思われる不思議な模様が刻まれています。これらは「陰刻画(いんこくが)」と呼ばれていますが、明治時代に発見された当初は、「これは古代文字(手宮文字)ではないか?」と学会を二分する大論争を巻き起こしました。

現在では、アムール川流域やシベリア、バイカル湖周辺に見られる岩壁画との類似性が指摘されています。つまり、古代の小樽は、閉ざされた最果ての地ではなく、北東アジア世界へと開かれた「北の海の交差点」だったのです。シャーマニズムの儀式に使われたとされるこの洞窟は、海を越えて行き交った古代人たちのダイナミックな交流の証です。

2. ニシンがもたらした富と文化:江戸時代

時代は下り、江戸時代中期。小樽の海は、春になると海面が白く染まるほどのニシン(鰊)の大群によって、黄金の海へと変わりました。

「動く総合商社」北前船と近江商人の進出

この時代、小樽経済の主役となったのは、「北前船(きたまえぶね)」を操る近江商人や北陸の船主たちでした。

彼らは、大坂から瀬戸内、日本海を経由して蝦夷地(北海道)へ至る航路を開拓しました。北前船の最大の特徴は、単に荷物を運ぶ運送業ではなく、船主自らが商品を買い取って商売を行う「買積(かいづみ)」方式だった点です。彼らは「動く総合商社」そのものでした。

彼らが蝦夷地で求めたのは、食用としてのニシンだけではありません。ニシンを大釜で煮て油を絞った後の搾りカス、「〆粕(しめかす)」こそが、真の狙いでした。

窒素やリン酸を豊富に含む〆粕は、当時西日本で盛んだった綿花栽培や藍作に欠かせない高級肥料として、飛ぶように売れました。「ニシンが獲れれば、河内(大阪)の木綿が育つ」。小樽の海と本州の農業は、北前船という太いパイプで直結していたのです。

豪壮華麗な鰊御殿が語る光と影

ニシン漁で得た莫大な利益は、小樽の海岸線に特異な建築文化をもたらしました。それが「鰊御殿(にしんごてん)」です。

祝津(しゅくつ)地区に残る「小樽市鰊御殿(旧田中家番屋)」や「旧白鳥家番屋」を訪れると、その桁外れの豪華さに圧倒されます。本州から取り寄せた総漆塗りの床、高価な越前瓦、精緻な彫刻が施された欄間。網元(経営者)たちは、その財力を誇示するかのように御殿を建てました。

しかし、その華やかさの裏には、東北地方などから出稼ぎに来た「ヤン衆」と呼ばれた漁夫たちの過酷な労働がありました。彼らは寒風吹きすさぶ中、重いモッコを背負い、命がけでニシンを運び続けました。御殿には、主人と客人が使う豪華な玄関とは別に、漁夫専用の狭い土間口が設けられています。建物に残るその明確な境界線は、当時の厳格な階級社会と、富の集中が生んだ光と影を今に伝えています。

3. 北海道の玄関口、近代化のエンジン:明治時代

明治維新後、小樽の運命は劇的に変化します。札幌が北海道開拓の本府として建設されると、その「外港」として小樽が選ばれ、日本の近代化を物流面から牽引する役割を担うことになったのです。

鉄道と港が結合した「海陸一貫」物流革命

1880(明治13)年、手宮(小樽)から札幌を結ぶ、北海道初・日本で3番目の鉄道「官営幌内鉄道」が開通しました。

なぜ、これほど早い時期に鉄道が必要だったのでしょうか。その答えは「石炭」にあります。内陸の空知地方で産出される質の高い石炭は、日本の産業革命を推し進めるための黒いダイヤでした。

鉄道で運ばれた大量の石炭は、手宮の桟橋から船に積み替えられ、本州や海外へと送り出されました。鉄道と港が直結する「海陸一貫」の物流システムが完成したことで、小樽は単なる漁港から、国家プロジェクトを支えるエネルギー供給のハブ港へと変貌を遂げたのです。

現在、「小樽市総合博物館本館」となっている旧手宮鉄道施設には、レンガ造りの機関車庫や転車台が当時のまま残されています。石炭の煤(すす)と蒸気の匂いが染み付いたようなレンガ壁を見ていると、近代日本を走らせるために奮闘した鉄道員たちの熱気が蘇ってくるようです。

4. 北日本随一の商都と「北のウォール街」:大正・昭和戦前期

明治末期から大正、昭和初期にかけて、小樽の繁栄は絶頂期を迎えます。人口は急増し、札幌を凌ぐ北海道第一の都市として君臨しました。

「北のウォール街」に渦巻いた欲望と美学

物流が集まる場所には、必然的に金融が集まります。小樽の色内(いろない)大通り周辺には、日本銀行をはじめ、三井、三菱、第一など、名だたる銀行の支店が次々と進出しました。

最盛期には25行もの金融機関がひしめき合い、その景観はニューヨークになぞらえて「北のウォール街」と呼ばれました。彼らが競って建てた銀行建築は、単なるオフィスではありません。顧客に信用力を誇示するための、威信をかけた芸術作品でした。

例えば、東京駅の設計者・辰野金吾が監修した「日本銀行旧小樽支店」。ルネサンス様式の重厚な石積み、ドーム屋根、そして内部の広大な吹き抜け空間。当時、このカウンターでは、今の金額にして数千億円規模の資金が日々動いていたと言われます。

特に第一次世界大戦中、ヨーロッパの農地が戦場となったことで、北海道産の豆類(雑穀)の輸出が爆発的に伸びました。「小樽の相場が世界の豆相場を決める」とまで言われ、成金たちが夜毎料亭で散財する、狂乱と呼べるほどの好景気に沸いたのです。

小樽運河の誕生と「艀(はしけ)」の記憶

この膨れ上がる物流をさばくために建設されたのが、今や観光のシンボルとなった「小樽運河」です。

1923(大正12)年に完成したこの運河は、内陸を掘った運河ではなく、海岸線を埋め立てて造られた「埋立式運河」であることが特徴です。当時は、沖合に停泊した大型船と陸地との間を、「艀(はしけ)」と呼ばれる平底の小舟が何百隻も行き交い、荷物を運んでいました。

運河は、この艀が荷揚げを行うための水路であり、沿岸に並ぶ石造倉庫群は、運び込まれた物資を保管する巨大な金庫でした。夕暮れ時、運河の水面に映る倉庫の影を見つめながら、かつてここで汗まみれになって荷物を担いだ港湾労働者たちの怒号や活気を想像してみてください。静かな水面の下には、男たちの熱いドラマが沈んでいるのです。

5. 「斜陽」からの再生、市民が守った街の記憶:昭和戦後期〜現代

しかし、歴史に残る繁栄も永遠には続きません。戦後、エネルギー革命によって石炭需要が激減し、物流の中心が太平洋側の苫小牧へと移ると、小樽の経済的地位は急速に低下しました。いわゆる「斜陽の街」としての苦難の時代の始まりです。

運河埋め立て計画と市民の抵抗

昭和40年代、小樽運河はもはや物流の役目を終えていました。水は淀み、ヘドロが堆積し、悪臭を放つ「都市の汚点」として見なされるようになっていました。高度経済成長の波に乗るため、小樽市は運河を埋め立てて、6車線のバイパス道路を通す都市計画を決定します。

「古いものは壊し、新しいビルや道路を造る」。それが当時の正義でした。

しかし、ここで小樽の歴史を変える出来事が起きます。一人の主婦の声から始まった反対運動が、やがて大きなうねりとなり、全道を、そして全国を巻き込む「小樽運河保存運動」へと発展したのです。

「この運河と石造倉庫は、小樽の歴史そのものだ。壊してしまえば、街の記憶が消えてしまう」

保存派の市民たちはそう訴え続けました。行政との対立は10年以上にも及び、その激しさは「小樽の戦争」と呼ばれるほどでした。経済効率を優先するか、文化的価値を守るか。この問いは、日本のまちづくりの在り方を問う先駆的な議論となりました。

「保存」から「活用」へ。生まれ変わったシンボル

1983(昭和58)年、長い論争の末に、「運河の幅を半分埋め立てて道路にし、残り半分を散策路として保存する」という折衷案で決着しました。

結果として、この運動が小樽を救うことになります。美しく整備された運河と、ガス灯の明かり。そして、「北一硝子」などが先陣を切って行った、古い倉庫を壊さずに店舗として再利用する「リノベーション」の手法。

これらが組み合わさり、小樽は「歴史情緒あふれる観光都市」として奇跡の復活を遂げました。現在、年間数百万人もの人々が訪れるこの風景は、行政の計画だけでなく、街の記憶を守ろうとした市民の執念が勝ち取ったものなのです。

歴史の断層を歩く、大人の小樽旅

小樽の街を歩くとき、ふと立ち止まって建物の壁に触れてみてください。

軟石(なんせき)のざらついた感触、赤レンガの冷たさ。そこには、縄文の祈り、ニシン漁の狂喜、石炭の煤、銀行家の野望、そして街を守ろうとした市民の熱い想いが、幾層にも重なって刻まれています。

小樽の歴史は、単なる過去の記録ではありません。成功と挫折を繰り返し、それでも自らのアイデンティティを問い続けたこの街の「生き様」そのものです。

次回の小樽旅行では、ガイドブックの地図を片手に持ちつつも、時折それを閉じて、歴史の気配に耳を澄ませてみてください。きっと、あなただけの特別な「小樽の物語」が見つかるはずです。

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